2024.11.24
マルコの福音書12:1-12
このたとえ話はイエスが十字架に架けられる(金曜日)の直前(火曜日)に話されたたとえです。少し聖書やキリスト教信仰の知識のある方ならすぐに登場人物が誰を指しているのか分かるでしょう。
ある人(畑の主人)=神
農夫=イスラエル人(私たち人間)
しもべ=旧約聖書からバプテスマのヨハネまでの預言者たち
息子=「見捨てられた石」=イエス・キリスト
このたとえ話から学んでいきましょう。
1、全ては神のもの。
1節をみるとこのぶどう園を造ったのも、垣を巡らしたのも、酒ぶねを掘ったのも、やぐらを建てたのも、すべてこの農園の主人だということが分かります。農夫たちはぶどう園ができることに関しては何もしていないのです。ただその園を貸してもらったにすぎません。そしてその収穫からすべてではなく、一部を主人に返すように言われただけです。
この天地を創造されたのは神であり、人間は何一つしていません。すべて神が創られた自然の恩恵によって、私たちは命を保つことができているのです。
神は私たちにそのことを覚え、感謝し、親しい関係を持つことを望んでおられます。
2、人は勘違いしてしまう。
ところが農夫たちはいつの間にかぶどう園は自分たちのものであり、主人にはほんの少しでも渡したくない、さらにすべてを自分たちのものにしてしまいたいという欲望を持つようになりました。主人から繰り返し遣わされるしもべたちをひどい目にあわせただけでなく、主人の息子までも殺してしまったのです。
このように人間は本来自分が生かされているいのちの源が何であるのかを忘れ、「勘違い」してしまう罪の性質を持っています。そして神の呼びかけを無視し、その愛を拒絶してしまいます。その行き着くところは永遠の滅びです。
私たちすべてが、神の恩に気付き、その愛を受け入れなければなりません。
3、イエスを信じよう。
言うまでもなく、このたとえはすぐ目の前に迫っているイエスの十字架の苦難を表しています。イエスは頑なな人間たちに殺されることを知りながら黙々と十字架への道を歩まれました。それは「見捨てられた石」となって人々を救うためでした。
この主人は農夫たちに何度でもチャンスを与えました。最後に自分の息子を遣わすという最後の呼びかけをしています。この神の呼びかけに応答するチャンスが私たちに与えられています。しかし無限にあるわけではありません。
イエス・キリストこそが私たちのために人となって生まれ、十字架で苦しんだ後に死なれ、そしてよみがえってくださった神のひとり子です。この方を信じるのならば、すべての罪がゆるされ、永遠のいのちが約束されるのです。この神の愛に応答して、イエスを救い主と信じましょう。
今週の暗証聖句
ですから、 聖霊が言われるとおりです。「きょう、 もし御声を聞くならば、 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、 心をかたくなにしてはならない。
ヘブル3章7−8節