2019.04.28
幸せを求める心というのは、すべての人間が持つ基本的な欲求で、それ自体は全く悪いことではありません。誰だって幸せになりたいし、当たり前の願いです。では聖書はこの人間の「幸福に過ごしたい」という願いに対して、どのように教えているかを見てみましょう。
1、幸福実感力。
幸福実現力ではなく、幸福実感力です。幸福を実現しようとすると、人は何か具体的な目標を決めて、それを手に入れなければなりません。お金をたくさん持つとか、出世するとか、有名な大学に合格するとか、自分の夢や目標を達成することによって、幸せを実現できると多くの人が考えていると思います。しかしたとえそれを手に入れて、幸福を感じたとしてもそれは一時的なものです。また次々と幸福を実現するための新たな課題がやって来ます。きりがありません。
聖書は、喜べること、感謝しやすいことを喜び、感謝しろと言っているのではなく、いつも喜び、すべてのことに感謝するようにと勧めています。これが日々、幸福を実感して過ごす力ということです。
2、人生解釈力。
どんな人にも良いことが起これば、悪いことも起こります。良い人には良いことだけが起こり、悪い人には悪いことだけが起こるというわけではありません。その逆もありません。大切なことはその意味付けです。「この事は私の人生にとってどういう意味があるのだろう…?」と考えることが必要です。それを解釈と言います。
幸福と不幸に客観的な基準はありません。お金を幾ら持っていたら幸福で、それ以下だったら不幸だなどと考えることはできません。すべてはどう見るかという自分の解釈力にかかっています。
3、寛容力。
言い換えれば赦す力です。人に対する恨み、怒り、妬みなど、悪い感情を持ったままでは、人は本当の意味で幸福になることはありません。そのような自分を縛り付ける感情から、自由になる力が赦す力です。
生きていれば色々なことがあります。学校や職場や地域社会で、あるいは家族のなかで、頭にくること、傷つけられること、様々なことがあるでしょう。そのなかで、寛容力を身につけると、人生を幸福に過ごすことができるでしょう。
4、他助力。
人間は、自分だけが得するように、自分だけが幸せになるように、という気持ちで生き続けても、結局幸福を実感することはできません。他の人が幸せになる姿を見て、自分も幸福を味わえる、これが本来あるべき幸福の姿です。他人の幸せを心から願い、助ける力が必要です。
世の中の論理は、手に入れた者が幸せ。人よりも多くゲットした者が幸せ、人よりも高いところに立った人が幸せ、人よりも大きなものを持っていたら幸せ、という論理です。しかし聖書は、手に入れるよりも、与える人のほうが幸せなのだと教えています。
神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって私たちに、 いのちを得させてくださいました。 ここに、 神の愛が私たちに示されたのです。1ヨハネ4:9