2017.04.10
ルカの福音書22:54-62
今日はイエス・キリストの十字架に関わった一人の人を追っていきましょう。そしてイースターに向けて心を備え、イエス様の十字架の死と復活の意義を改めて思い、感謝する時としていきたいと思います。今日取り上げる人物は、ペテロです。
十字架が意味するものは…
1、失敗、挫折、恥。
イエス様の弟子となり、ともに過ごした3年間、輝かしい日々であったに違いありません。一介の田舎町の漁師に過ぎなかったペテロが、大衆に人気があり、多くの群集を前に教えるイエス様の弟子となったのです。彼には自尊心があったことでしょう。しかし、そんな彼の自尊心はイエス様の十字架によって、こなごなに打ち砕かれたのです。
イエス様の十字架は、ペテロにとって失敗、挫折、恥の象徴となりました。私たちにも、同じようなことが起こります。あるときは失敗し、あるときは挫折し、あるときは恥ずかしい思いをします。
しかしそのような私たちの苦しみ、悲しみ、悔しさを、全部背負ってイエス様は十字架へと進んでくださったのです。この受難の週、私たちのために苦しんでくださったイエス様の苦しみの十字架を思いましょう。
2、罪と罰。
ペテロと目を合わせた後、イエス様は十字架刑に連れていかれたわけですが、ペテロの痛みも、その後何時間も続くことになります。「自分は何て弱虫なんだ。卑怯なんだ。卑劣なんだ。罪深いんだ。」そんなふうに、自分を責める気持ちを強く持ち続けたのではないかと思います。イエス様の十字架は、まさに、ペテロにとって、イエス様ではなく自分自身の罪の象徴、そしてイエス様にではなく自分自身に対する罰の象徴となったのです。
私たち自身の心にも、同じ性質があります。自分さえよければ。自分を護るためには他の人はどうなっても構わない。そういう人間の汚い心が、今でも「イエスを十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んでいるのです。私たち人間皆がイエス様を十字架に追いやったのと、聖書は教えているのです。
3.愛。
確かにイエス様を十字架に架けて殺したのは、私たちの罪です。自分さえよければ良いという汚い心です。しかしイエス様は、そんな私たちの弱さ、汚さ、情けなさをすべてご存知なのです。そしてそれでも、この地上の世界で、愛を広めろと使命を与えられるのです。自分を裏切ると知っておられながら、なおイエスさまは、ペテロのために祈り、そればかりでなく、後で他の人を励ますようにと託されたのです。十字架が意味するところは、この十字架は私の罪のためだったという事実の上に、主はもう私を赦し、使命を託されているのだというメッセージです。愛のない世界に、神の愛を伝えるように。「自分は汚れている」と思い、苦しんでいる人に、神の赦しを伝えるように。「赦すことはできない」、と心縛られている憎しみの世界に、互いに赦し合い、愛し合うことを促すようにと、私たちの教会に使命を与えておられるのです。この受難週のはじめの朝、あなたの心に何があるのか自分を見つめてください。
今週の暗証聖句
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。Ⅰペテロ 2:24