2016.05.01
創世記33章1-4節
20年ぶりの兄エソウとの再会です。あれほどヤコブが恐れていたエソウですが、実際に会ってみると、驚くほどあっけない結末となりました。エソウはヤコブを見ると、攻撃するどころか走って近寄り、首に抱きついて泣いたのです。昔の出来事などすっかり忘れているかのようでした。私たちはここに、色々な「神のとき」があることを教えられます。
1、神の護りがある。
一見すると、ヤコブの「兄を騙して恨みを買ってしまった」という永年に渡る苦悩や恐れは、ただの取り越し苦労だったように見えます。しかし27章では確かにエソウは「父イサクが死んだら弟ヤコブを殺してやろう」と言っているのです。このことが、ヤコブが故郷を離れた原因であったので、帰る際にこの兄との再会を恐れることは当然のことでした。このエソウの怒りがいつ、どのようにして溶けたのかは、分かりません。ただ、ヤコブが帰る時期としては相応しいときだったことは確かです。ここに人の心をも変えることのできる神の護りを見ることができます。
私たちの人生においても、はっきりと神の護りを自覚できるときもあれば、もしかしたら、見えない形で、分からない形で、神様に護られた、あるいは護られている、ということがあるかもしれません。
2、神の赦しがある。
4節の言葉によって、思い出すシーンがあります。それはイエスの「放蕩息子」のたとえです。
ルカ15:20 ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
この一見全く違うように見える二つの物語には、①故郷に帰る。② 相手が自分に対して怒っているのではないかと思っている。 ③ところが意外にも相手は自分の帰りを喜んで迎えてくれる、などといった共通点が多くあります。このことは、創世記から始まる聖書全体に貫かれている一つのテーマと考えることができます。 神は戻っていくなら、怒らずに、喜んで迎えてくださいます。「神のとき」に神のもとに帰り、神と和解する者となりましょう。
3、神の和解がある。
もう一つの重要なトピックは「兄弟の和解」です。思い出してください。最初の人アダムとエバによって人類に罪がもたらされた後、最初に起こった悲劇は、兄カインによる弟アベルの殺害でした。以来この創世記では度々兄弟の争いの姿が出てきます。恐れに打ち勝ち、憎しみを乗り越える唯一の方法は、和解をすることだという大きなメッセージもここに込められているのです。
ヤコブが故郷を離れたのも、故郷に戻ったのも「神のとき」でした。この「神のとき」に従うときに、私たちは神の護りを得、赦され、人生の問題に解決が与えられます。まずは神様のもとに帰ることです。そうすればそれからの人生に「神のとき」が与えられます。神様のもとに帰りましょう。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 伝道者の書3:11