2014.07.13
イエスのたとえ⑬
ルカの福音書15:1-7
このたとえは当時の社会で「罪人」と見られていた人たちを受け入れているイエスに対して、宗教家たちが批判したことから語られたものです。イエスが羊飼いであり、この「罪人」が迷子の羊であることは明らかです。
1、すべての人が神のもの。
4節「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら…」
イエスは人々に嫌われ、仲間はずれにされている人たちを自分の羊にたとえています。イエスにとってはどんな人でも自分(神)に属するものであり、大切な存在なのです。何故ならすべての人が創造主である神から命をいただいているからです。そこには他の人との比較はありません。一人ひとりが貴重な存在で、代わりはないのです。
この神とともにいるのが本来の人間の姿です。神のそばで生きてはじめて人は本当の安心と安全を持つことができます。しかし多くの人が羊飼いのように自分に気を配り、護ってくれる神から離れ、迷子になっています。この状態を罪と呼びます。神と離れ、安心と安全を失って苦しむ人間の姿が、迷子になっている羊です。「自分は神のものなのだ」ということに気づきましょう。
2、イエスは捜している。
4節「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」
ここに描かれている神(キリスト)の姿は、人間に探してもらう神ではなく、人間を探し回って見つけようとする神の姿です。私たちは宗教というと自分で求め、学び、知ろうとするものだというイメージがありますが、神のほうから私たちを探し、追いかけ、捉えようとしてくださっているのです。人間は神とは何かを知らなければならないのではなく、呼んでくださっている神の声に気付くことが必要です。教会に来るきっかけは様々であっても、すべてに偶然はありません。その背後には神の呼ぶ声があるのです。自分を呼んでいる神の声に気付きましょう。
3、信じるとは見つけてもらうこと。
5-6節 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
私たちすべてが神を喜ばせることができます。良い行いをするとか、特別なことをすることによってではありません。神に見つけていただくだけで良いのです。私たちを見つけるだけで、天には大きな喜びが起こるのです。キリストはこのように、人が神に見つけられて、神のもとに戻ることを「悔い改め」と呼んでいます。
私たちは神の探す声、呼ぶ声に気付いたのであれば、「はい。ここにいます。あなたのところに帰りたいです」と応えるだけで良いのです。
キリストは私たちが帰ることができるように、十字架の御業によって神との隔てに橋をかけてくださいました。誰でも十字架を通って父なる神のもとに帰り、豊かないのちをいただくことができます。神の呼びかけに応えましょう。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 ヨハネ10:11