その269 救いのどんでん返し

2025.02.16

ルカ18:9-14                       

キリスト教信仰の本質は「どんでん返し」です。「救われるはずがない」と思っていた人が最後に神に受け入れられ、「救われるはずだ」と思っている人が実は神から離れていたということです。イエス・キリストはこのたとえを通して、単純に「どのような人が神に受け入れられるのか」を教えています。

1、自分は正しいと思っている人ではなく正しくないと思っている人が救われる。  

当時の社会ではパリサイ人は神の掟である律法を忠実にまもる宗教的エリートで、特にローマ帝国に支配されていたユダヤのなかで、人々の模範となる心の拠り所のような存在でした。一方取税人はローマ帝国の手先として税金を集める仕事ですから、社会的には嫌われ者であり、救われるはずのない罪人と思われていたのです。

このパリサイ人は、自分は神に受け入れられるべき正しい人間だと思っていました。しかし彼はどういう状態が神によって正しいとされるのか、その正しさの基準を知らなかったのです。結局のところ、それは人との比較でしか測れないものでした。彼は「ほかの人のように〜する者ではないことを感謝します」と祈っています。

取税人のほうは自分を正しいと言えるようなものは一つもないと自覚し、神に目を上げることさえ出来ずにいました。しかし神はこの人を正しいと認められたのです。

2、「出来る」と思っている人ではなく「出来ない」と思っている人が救われる。

パリサイ人は自分は神に救われるべきことをすべて出来ていると思っていました。週に二度の断食と捧げものです。勿論彼が実際にやっていたことは間違いではなく、立派なことです。しかしわざわざ祈って神に報告することではありませんね。神は人が出来ていること以上にその心をご覧になるのです。

一方の取税人は、ただ自分の胸をたたきながら、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈るだけでした。自分は神に受け入れられ、赦されるようなことは何一つ出来ていないと思っていたからです。

3、-は+に、+は-に変えられる。

救いのどんでん返しは−が+に、+が−になることです。パリサイ人は「自分は+だ」と思っていましたが、他の人ばかり見て神を見上げず、神との個人的関係を築かなかったために−で帰らなければなりませんでした。

一方取税人は「自分は−だ」と思い込んでいましたが、神にすがりつく心によって神との個人的関係を築き、+になって帰っていったのです。

イエスは最後に「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と結んでいます。神の前で他人と自分を比べて誇り、安心するのではなく、自分の愚かさ、弱さ、足りなさを痛感して、神にすがりつくときにイエス・キリストの十字架が引き上げてくれます。救われる資格のない者が救われているという自覚を持って、主の恵みを感謝していきましょう。

今週の暗証聖句

神へのいけにえは、 砕かれた霊。 砕かれた、 悔いた心。

神よ。 あなたは、 それをさげすまれません。      詩篇51:17

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