2025.02.09
ヨシュアは110歳まで生きました。24章はまさに、彼の遺言に当たる章となりますが、彼は単なる感傷的な気持ちで、イスラエルの人々に別れを告げたわけではありませんでした。ここには、彼の切実な訴えがなされているのです。彼が最後の最後に、これだけは聞いてもらいたい。これだけは守ってもらいたいという願いがなされているのです。
1、神の恵みを忘れるな
ヨシュアはシェケムというところに全部族を集め、神の前に立たせたのちに、神様の言葉としてアブラハムから始まるイスラエルの歴史を延々と伝えました。神様が自分たちの先祖にどのような恵みを表され、そしてヨシュアを含めた彼ら自身をどのように愛されているのかをずっと語っているのです。これは先祖から今の時代に至るまで、神様がどれほど大きな恵みをくださったかを忘れるなというヨシュアの訴えでもありました。
私たちの信仰生活もこれと同じです。私たちは弱い人間ですので、時として、神様を愛し、仕えることに疲れを覚えたり、どうしてこのようなことをしなければならないのかと、疑問を持ってしまったりすることもあるかもしれません。そのようなときに重要となるのが、今まで受けた神様の恵みです。とりわけ、現代のクリスチャンは、あの十字架の恵みに立ち返らなければなりません。私たちが、信仰生活に疲れ、目的を失いそうになったときに、帰らなければならないところは、この恵みです。そしてヨシュアも、この恵みを忘れずに、常に立ち返るようにと、民衆を励ましているのです。私たちも十字架の恵みを忘れないようにしていきましょう。
2、選択をしなさい
ここでヨシュアは「あなたがたは自分で選び取れ。主が気に入らないのなら、どうぞ自由に他の神に仕えなさい。しかし私の家と私は主に仕える」と宣言しています。
これは申命記のモーセにも通じるし、聖書全体のテーマと言えるかもしれませんが、神様は決して人間に強制されません。愛を表してはくださいますが、強制して感謝しろとは言われません。私たちに選択の余地を与えてくださるのです。そして私たちが自分で選び取って、神を信じ、神を愛し、神に仕える決断をすることを、じっと待っていてくださるのです。
私たちはこの地上を去るときに、一体どんな言葉を残すでしょうか。ヨシュアは大切なことを教えています。それは信仰の継承です。彼は決して、自分さえ天国に行ければ良いとは思わなかった。彼の関心は、彼の後に続く世代が、彼と同じように、彼の歩んだ道を歩むことでした。それも自分の意思で選び取って欲しかったのです。ここに、私たちが地上に残すべき大きな使命があるのではないでしょうか。1人でも多くの次の世代が、信仰を継承するように、私たちは自信と確信を持って、伝えていかなくてはならないのです。「私と私の家とは主に仕える。」どうかすべてのクリスチャンがそのような決意を持って歩むことができますように、そしてこの生き方を通して、次の世代に、この素晴らしい恵みと信仰を継承していくことができるように励んでまいりましょう。
私と私の家とは、【主】に仕える。 ヨシュア24:15