2025.01.12
ヨシュア記 23章1-16節
ヨシュアは年をとって老人となりました。戦いに明け暮れた人生でしたが、約束の地カナンはほぼ手中に収まり、くじによって各部族の住むところを割り当てました。ただ注意しなければならないのは、彼らはこの時点では他の民族をすべて追い出してしまったわけではないのです。いわば先住民と雑居するような形で、町を築いていく形でした。
モーセが死を前にしてイスラエルの民に語った遺言が申命記ですが、ヨシュアにとっての申命記が、この23章と24章です。生涯をかけた事業を託す言葉として、ヨシュアの心からの願いと警告が、この2章に込められています。それは一体何だったのでしょうか。
1、勝利を与えられるのは主。
「あなたがたが戦いに勝利したのは、あなたがたが強かったわけでも、戦いに秀でていたわけでもなく、ただ主が、あなたがたのために戦ってくださったからなんですよ」と言うことです。そしてこれらの言葉の中には、過去のことだけではなく、未来の約束も含まれています。これから先、将来の戦いも、主が戦って、勝利してくださるのだというのです。
ヨシュアが心配したのは、恐らく、このイスラエルの民たちが勘違いして、このカナンの地を征服したのは俺たちの力だ、俺たちの勝利だと思い込んでしまうことだったと思います。
信仰生活の落とし穴は、傲慢にあります。特に、何かの成功体験を、さも自分の力、自分の信仰の強さの結果のように考えてしまって、それを与えてくださった神様から目を離してしまう弱さがあります。
私たちも神様の前に、傲慢になることを恐れ、いつも主がよくしてくださっているという感謝を持って生きるようにしましょう。
2、神の言葉を妥協しない。
ここでヨシュアの警告したことは、ずばり偶像礼拝のことでした。イスラエルの民が、先住民に影響を受けて、神様のことを忘れて他の神々のもとにいくことを恐れ、強く警告しました。しかし残念ながら彼の恐れていたことは現実となります。ヨシュアがここで言いたかったことは、どんなに誘惑が強くとも、神様から目を離すな、神の教えを手放すなということでした。
世にありながら、罪と妥協することなく生きる。これはまさに戦いです。生半可なことでは勝利することはできません。しかし、私たちには、私たちの代わりに戦ってくださる神様がいるのです。私たちの今までの人生の中でも、主が勝利をとられた、という体験を何度もしてきたことでしょう。そしてこれからも、どんなことがあっても、主が戦ってくださいます。信仰が強くなればなるほど、また主のために生きようとすればするほど、戦いも大きく、激しくなっていくと思います。そんな時は、傲慢になることなく、謙遜になって、栄光をすべて神様にお返しし、そして罪とは妥協することなく、ただ主を信じて、従っていきましょう。
神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 Ⅰヨハネ 5:4