その240 信仰は入り口、出口、通り道

へブル人への手紙10:35-39

ユダヤ教の背景を持った人たちが、律法に記されていたことがやがて来るメシアの救いを表し、イエス・キリストこそがその救い主であることを知り、救われました。しかしその後彼らに深刻な迫害が襲いかかり、ある人たちは教会から離れてしまいました。この手紙の記者はそのような苦しみにあるクリスチャンを励ましています。

1、確信を持とう。

10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

律法には神に罪赦され、聖なる者となるために必要な儀式が規定されています。それは動物のいけにえを祭司の前に差し出して自分の身代わりとするという儀式です。しかしそれは人間が赦されるために何が必要かを教えるための型(影)にすぎず、実際にはそれで人の罪が消えるわけではありません。

イエス・キリストは私たちのために完全ないけにえとなって身代わりに死んでくださいました。そして今は大祭司として私たちのためにとりなして祈ってくださっているのです。

イエス・キリストを信じることによって、私たちは神の目に聖なる者、罪赦された者と見られます。この確信が神と共に生きる生涯の希望です。後に待っている大きな報いを期待して歩んでまいりましょう。

2、忍耐を持とう。

10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

私たちの信仰生活にはときには大きな戦いが起こります。信仰を止めさせ、信じることを諦めさせるような試練が襲いかかるときがあるかもしれません。

聖書は私たちに「忍耐」の大切さを教えています。目に見える状況がどんなものであっても、じっと神のときを待つことです。神は信じる者を見捨てることはありません。必ず助けてくださいます。最善をなしてくださる神に委ねましょう。

3、信仰によって生きよう。

10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。

信仰によって救われた私たちは(入口)、信仰によって永遠の御国にいくために(出口)、信仰によって歩まなければなりません(通り道)。入口と出口だけ信仰で、途中は他の道というわけにはいきません。信じるからには、最後まで信じ抜いて、地上での生涯を全うしようではありませんか。そのために聖書と祈りと教会が大切です。

11章以降は信仰によって生きた聖書の登場人物たちが、最後にどのような報いを受けたかを証言しています。彼らは特別な能力があったわけではありません。皆私たちと同じような弱い人たちでした。しかし目に見えない神を信じ、豊かな収穫を受け、永遠のいのちに生きる者とされました。私たちも同じ信仰によって、彼らと同じように歩むことができるのです。信仰によって生きていきましょう。

今週の暗証聖句

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。                   へブル12:2

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