その200 圧倒的な恵み

2019.06.09

使徒の働き 19章1-7節

パウロがエペソのクリスチャンに会ったとき、何かに気がついたようです。彼らにこう尋ねました。「信じたとき、聖霊を受けましたか」。彼らは答えます。「いいえ。聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」パウロは彼らを見て「クリスチャンではあるけれど・・・」と思ったようです。そして主イエスの御名による洗礼を授け、手を置いて祈ると、彼らは聖霊に満たされたと書かれています。彼らは何が変えられたのでしょうか。

エペソのクリスチャンたちは・・・

1、悔い改めから感謝へと変えられた

彼らはヨハネのバプテスマしか知りませんでした。それは「悔い改めのバプテスマ」だったということです。勿論、悔い改めが悪いということではありません。私たちは皆、イエス様を信じるときに、自分が罪人であることを認め、悔い改めます。そして信じたあとも、日常生活のなかで、神様を悲しませる愚かな罪を悔い改める必要があります。しかし、真のクリスチャン生活は、悔い改めだけで終わるのではなく、それが感謝と喜びへと変わらなければなりません。何故なら神様は、私たちを、自分を責め続けるために救ってくださったのではなく、感謝の喜びで満ち満ちるように、救ってくださったからです。

 聖霊が溢れ流れると、私たちの目は、自分ではなく、主に向けられます。主こそがすべてとなります。主への感謝、喜びで満たされます。彼らは異言を語ったとありますが、それは神様に向けられた賛美だったのです。

2、禁欲から自由へと移された

もう一度バプテスマのヨハネのことを考えてみましょう。福音書によりますと、ヨハネには世を捨て、禁欲的に生きる預言者の姿があります。その彼の教えを聞きに、大勢の群衆が集まり、ヨルダン川で、水の洗礼を受けました。それは罪の赦しのバプテスマでした。それが悪いということではありません。彼は主イエス様が来られる前に、神様の前に人がどのような態度で、生きるべきかを教えたのです。しかしそれは同時に、多くの人にとっては、非常に厳しい世界でした。人は自分の力で、罪を犯さないように生きることはできないのです。

イエス様の御名による洗礼は全く違うものでした。それは聖霊によって、一度死に、そして聖霊によって再び生まれ、キリストのからだである教会に加えられるという驚くべき奥義だったのです。

3、聖霊の力が与えられた

この後パウロはしばらくこのエペソに留まり、周辺の地域にあますところなく福音を宣べ伝えました。その時に、パウロを助けたのが聖霊の満たしを受けたこの弟子たちだったに違いありません。このエペソのクリスチャンたちは、事前に聖霊に満たされる必要があったのです。そして同時に、後でこの町に大きな迫害が起こりました。しかし神様は彼らを聖霊に満たすことによって、そのような危機、苦しみに耐えることができるように前もってしてくださったのです。

大切なことは、聖霊の満たしを求めることです。「クリスチャンではあるけれど・・・喜びが感じられない。自由が感じられない。何よりも私の信仰には力がない。」そのような方は特にご一緒に祈りましょう。イエス様が約束してくださった、生ける水の川が心の奥底からあふれ出るような体験を求めようではありませんか。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-8

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