その172 私は信じる⑦

2018.07.15

私は信じる⑦ 使徒信条シリーズ

ローマ人への手紙3章22-24節

「我は・・・罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず。 アーメン」

1、私たちの罪は赦された。

ここに罪という言葉が初めてこの信仰告白に出てくるのですが、この罪の問題を抜きにして、キリスト教信仰はありえません。自分のなかにある罪を認めない者は、神を認めないことと同じです。自分が罪人であることを認めない人は、救いが必要であることを知りません。逆に言えば、自分がどうしようもない罪人であるということを知っている人が、神を求め、救いを受取ることができるのです。これが神様が用意してくださっている救いの条件です。

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ロマ3:24

自分には何の価値もないのに、自分はあれもした、これもできたという資格さえないのに、すべてを知っておられる神様から、お前は義しいと言ってもらえる方法があるのです。神様がその方法を私たちのために用意してくださったのです。それが御子イエス・キリストを十字架につけるということでした。

この朝も感謝しましょう。罪赦された者として、感謝の歩みをしていきましょう。

2、私たちの体がよみがえる。

ある方は、私たちは死んだら、ずっと霊だけになって、何か意識はあるけど、肉体は持っていない、そんな存在になると思っていますが、聖書が教えているのは、そうではなく、イエス様が再臨されるときに、信じて召された者たちは皆、肉体が与えられる。体をもってよみがえるということであります。これはとても重要で、何故重要かというと、イエス様がよみがえられたときにどうだったかと言う極めて重要な信仰も含まれているからです。イエス様は十字架につけられて三日目に霊だけがよみがえったのでしょうか。弟子たちが見たのは霊の姿だったのでしょうか。いいえ。肉体を持ってです。

イエス様と同じように、私たちも体がよみがえります。素晴らしい望みです。この望みをいただいて、信仰の道を走り抜きましょう。

3、私たちは永遠のいのちを持つ。

幾多の英雄たちが、捜し求めて止むことのなかった永遠のいのち。それを私たちクリスチャンが受取っているのです。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ6:23

永遠のいのち。天国。私たちにはこの望みがあります。どんなに長生きしても、死んだらその先どうなって、どこに行くのか知らないならば、楽しみも半減するのではないでしょうか。半減どころではないかもしれません。でも、「いつ死んでも天国がある」。そう思って生きて生ける人は何と幸いでしょうか。

最後の言葉、アーメンは。ヘブル語で信じます。という意味です。信仰を告白した後、信仰者はもう一度、「今告白したことすべてを信じます」と告白するのです。

私たちも最後にアーメンと言って終わりましょう。

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ローマ3:24

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