その162 十字架に向かうイエス

2018.03.25

マタイの福音書26章1-16節

今週はイエス・キリストが十字架に架かられる受難週です。私たちの信仰の中心は、あくまでもこのイエス・キリストの十字架です。来週の復活祭に向けてイエス・キリストの十字架の跡を追っていきましょう。

1、十字架を予告するイエス。

聖書は、イエス様はただ偶然に、あるいは不幸にして十字架に架けられたのではなく、ご自身が明確に、十字架につけられることを知っておられ、弟子たちに予告しておられたと教えています。このような方は他にはおられません。

このことが意味することは、イエスというお方が何か重要な目的、そして強力な意思を持って、その死、十字架へと一直線に歩まれたということです。

イエス様が何故十字架で死ななければならないのか。そのことを明確に表わしている鍵となる言葉が2節の「過越の祭り」という言葉です。イエス様は、ご自身がこの過越しの羊としてほふられ、十字架のうえで流される血潮によって、信じる者すべてを罪の奴隷、死の奴隷状態から解放しようとされたのです。

2、十字架に向かうイエス様に対する人間の行動

 ①祭司長・長老たちの姿

イエス・キリストを拒絶する人間の姿。

彼らはイエス様を神の子、救い主として認めることはできませんでした。反って民衆に人気のあるイエス様を見て妬み、このままでは宗教的指導者としての自分たちの地位があやうくなると思ったのです。邪魔者は殺してしまえ。これが彼らの下した結論でした。

私達すべての人間の心に、イエス様を拒絶する心があるのです。

②香油を塗った女性

イエス様の御心を悟り、精一杯の捧げものをする人間の姿。

この女性はイエス様が十字架を予告する言葉を聞いたに違いありません。そしてストレートにそのことを受けとめることができたのです。これからイエス様がなさろうとしていることは、決して武力で人々を支配しようとすることではなくて、過越しの日に、ほふられてゆく小羊として、その血潮によって人々を罪の支配から解放しようとすることなのだということを悟ることができたのです。そしてそのことに対して自分ができる精一杯のこと。それが高価な香油をイエス様に捧げるということでした。

③ユダの姿

十字架の意味を悟らない人間の姿

弟子たちにはイエス様の十字架の予告を受け入れることはできませんでした。もしそんなことになるのなら、イエスはもう利用価値のない男だ。売ってしまえ。ユダはこのように考えたのかもしれません。イエス様と46時中一緒にいながら、イエス様が十字架に付けられるという意味を理解することができなかったのです。

あなたは今十字架をどのように理解しているでしょうか。十字架に向うイエスに今何をするでしょうか。祭司長たちのように拒絶しますか。この女性のように何かを捧げますか。ユダのように見放しますか。

今週の暗証聖句

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の

十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと

思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを

見出すのです。         マタイ16:24-25

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