その99 「神と取っ組み合う」

創世記32章22-32節

 ラバンの元を離れたヤコブはいよいよ生まれ故郷へと向います。20年ぶりの故郷です。普通であれば、胸がはずむ、わくわくする旅であるはずですが、その故郷が近づけば、近づくほど、ヤコブの心は重く沈んでいきました。何故でしょうか。それは20年前に自分が騙して、祝福を横取りした兄のエサウと再会しなければならなかったからでした。

 その前の夜、彼の人生にとって大きな出来事が起こります。そこである人(神の御使い)と夜明けまで格闘するのです。

1、神と向き合う祈り。

 ヤコブは人生の重大な危機である兄エサウとの再会を前に、一晩中神の御使いと格闘するという体験をします。彼はこの時、真に神に向き合い、何らかの答を明確に受け取るまでは、絶対に御使いを去らせるわけにはいかないと考えました。

 私たちの人生にも、このようなことが起こります。神を信じ、神の約束を知っていても、どうしようもなく不安になり、恐れに打ち負かされそうになることがあるのです。そのような時に、どんなに人間の知恵を使って乗り切ろうとしても無駄なことです。自分を愛してくださっていると信じている神に一対一で向き合い、祈りを通して格闘するのです。その時私たちは、本当の意味で、神様を知り、神様の愛を感じることができるでしょう。ヤコブのように「私は顔と顔を合わせて神を見た」と言うことができるほど、祈って神に近づきましょう。

2、自分と向き合う祈り。

 この時ヤコブが向き合ったのは、神だけでなく、自分自身でもありました。ヤコブには清算されていない罪、心から拭い去ることのできない過去があったのです。それは兄のエサウを二度までも騙したという過去です。その時はきっと「やった」と思ったことでしょう。しかしそれがヤコブの生涯に暗い影を落とし、彼の人生に苦しみをもたらしました。この時彼は、自分自身の心の中を覗き込み、自分の汚さ、愚かさ、弱さとも向き合うことになるのです。 祈りは神と向き合うだけでなく、ときには自分自身と向き合い、自らの罪深さをまざまざと見せつけられるときとなります。しかしその時にこそ、神の恵みの大きさを体験することができるのです。

3、砕かれる祈り。

25節でヤコブはもものつがいを打たれて、はずされたと書かれています。これはそれまで自分の力を頼りにしていたヤコブが、神様だけに頼らなければならなくなった瞬間でもありました。私たちも神様に砕かれ、降参するような体験が必要です。ここまでは自分の力でやろう、ここから先は神様にお願いしよう。そのような信仰生活から、全く神様に明け渡した人生、神様なしには自分は何も出来ないと自覚して生きる人生へと転換する必要があります。じっくりと神様と向き合い、自分の過去も、現在もそして未来も全て御手に委ねきってしまう。そんな祈りを是非していこうではありませんか。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 ガラテヤ 2:20

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