2015.12.13
マタイの福音書1章18-25節
ヨセフはいいなづけマリヤの胎内にいる赤子がただの人間ではなく、聖霊によって身ごもった子であることを天使から告げられます。そしてこのイエスが生まれてくる目的を知らされます。天使は「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」というのです。この言葉からクリスマスの意味を考えてみましょう。
1、罪の生まれるところは心のなか。
「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」マタイ7:20-23
イエス様はここで、罪というものは、体の外にある、あるいは体の外側に出て初めて罪となるのではなくて、心の中でもうすでに始まり、心の中にあり、そこから外に向って出てくるのだと教えています。人は生まれながらにして、悪いものを心のなかに持ち、それが人を汚すのだと教えています。
2、罪の力は常習性と自覚症状がないこと。
罪には、くせになり、止められなくなるという力があります。そして自覚症状がなくなります。始めは良心が痛んだかもしれませんが、継続していくうちに、何とも思わなくなります。そして人生全体が引きずられるようになってしまうのです。パウロはこれを「罪の奴隷」と表現しています。自分も苦しみ、他人も傷つける、あらゆる不幸の原因がこの罪です。
3、罪の結果は神と永遠に離れること。
この罪の問題を解決することなしに、人は本当の幸福を得ることができないばかりか、イエス・キリストは明確に、人間には死後二つの行き先があると教えられました。一つは滅び。もう一つはいのちです。あなたはどちらを選びますか?
4、罪からの救いはイエス・キリストの十字架しかない。
これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。
旧約聖書の律法では汚れとはまず外から来て、汚れたものを触ると自分も汚れ、そしてそれが罪に定められると書かれています。
それに対して、イエス様は、人を汚すのは外ではなく内側、つまり心の中から生まれるものだといわれたのですが、いずれにしても汚れが指し示すのはそれが罪に定められるということです。どうしたらよいのでしょうか。律法では動物の犠牲、血が流されることによって汚れが清められると教えられました。これはイエス・キリストの十字架の予型です。イエス・キリストが十字架で流された血潮こそが、私たちの罪・穢れを洗い清めることができるのです。
では私たちは実際に何をすれば良いのでしょうか?信じるだけで良いのです。イエス様の死と復活は自分の罪からの救いのためであったと信じて、告白するだけで、あなたは汚れを清められ、新しくされ、永遠の命を受取ることができます。
御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。1ヨハネ1:7