2015.10.11
ルカの福音書15章17-24節
キリスト教の教える「救い」とは何で、そして何からの「救い」なのでしょうか?
1、苦しみではなく罪からの救い。
仏教の教えによると人間には生・老・病・死をはじめ多くの苦しみ(思うようにならないこと)があり、そこから脱すること(解脱)が「救い」と言えるでしょう。しかしキリスト教の救いはひとつひとつの苦しみではなく、すべての苦しみの原因である罪からの救いです。勿論信仰によって病が癒されることもあるし、生きる苦しみから解放されます。しかし根本的な変化はたとえ苦しみそのものは変わらなかったとしても、苦しみの意味が変えられるというものです。何故なら罪からの救いによって苦しみは力を失うからです。
もう一つの仏教との違いは、仏教のいう悟りとは基本的に自我の鍛錬(真理の正しい理解や洞察)によって得られるのに対して、キリスト教の救いは自分ではなく一方的な神の恵みから来るということです。神の恵みによって神に近づき、神の愛に気付き、神の憐れみにすがることによってしか、「救い」を得ることはできないのです。
2、救いとは神との関係の回復。
「救われる」とは罪が赦されるだけでなく、もともと人間が持っていた神との関係(絆)が回復されるということです。単に一つひとつの罪が赦されるだけで、神との関係が変わらないのであれば意味がありません。また罪を繰り返してしまう弱さを人間は持っています。神との関係が劇的に変わるからこそ「救われた」と言えるのです。
イエスの「放蕩息子」のたとえはそのことをよく表しています。彼は「我に返」って自分がどこから来たかを思い出し、そこに帰るべきだと気付きました。自分では再び「子」の身分に戻れるとも考えていなかったのに、父は喜んで過去を不問とし、一方的に彼との関係を回復したのです。
私たちが何をし、どのような状態であったとしても、自分が本来いるべきところから離れてしまっていることに気づき、そこに帰る決心をするならば、父なる神は喜んで迎えてくださり、子として扱ってくださいます。創造主である神との関係回復が「救い」です。
3、十字架しかない。
私たちが神の愛に気づき、帰ることができる方法は十字架しかありません。御子キリストが私たちの罪のために十字架に架かってくださいました。神はそれほどまでに愛してくださったのです。そして三日目に死の力を破ってよみがえられました。このことをありがたいと思い、信じる決心をするのです。世界中の教会に掲げられている十字架は、世界中の人々に対する「私のところに帰ってきなさい。帰ってくるなら赦すのだよ。また私と父子の関係を持てるのだよ。もう苦しまなくても良いのだよ」という父なる神からのメッセージです。父なる神との絆を回復しましょう。
私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。ローマ 8:15