その62 「光として生きる」

マタイの福音書5:14-16

 この言葉はイエス様の山の上の説教(5-7章)の始めのほうで語られる言葉です。「世界の光になれ」という命令でも勧めでもありません。「あなたがたは(既に)世界の光です」という宣言です。この言葉にはどのような意味があるのでしょうか。

1、自分をどう見るか?

 この山の上の説教は「心の貧しい者は幸いです(3節)」と言う言葉から始まります。イエスは続いて「悲しむ者は幸いです」と語ります。弟子たちも一緒にいた群衆も驚いたに違いありません。「貧しい者が(ルカの福音書の同じ部分には「心の」がありません)どうして幸せなんだ(あるいは祝福されているのだ)?悲しんでいる人が幸せなはずがないではないか」と。

 イエスはここで、神に愛され、創造された人間が神から見てどれほど価値がある存在か、まず自分を見る目を変えるように迫られます。近視眼的で、悲観的で、否定的な心を変えなければ、神にどれほど愛され、祝福されているかを知ることができないのです。

 私たちがイエス・キリストを信じるときに、聖霊によって神との関係が回復され、それによって、本当の自分を取り戻すことができます。

2、光が主役ではない

 「世界の光」というと、世界中の注目を浴びる人気者になるような印象がありますが、もちろんそのように自分が主役になったり、人から誉められるようになったりするという意味ではありません。続く「山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます」というイエスの言葉がそれを教えています。光は部屋のなか全体を照らし出すことに使命があるのです。太陽の光がなければ私たちは生きていけませんが、太陽をまともに見続ける人はいないでしょう。光の働きはその光によって、見えなかった何かが見えるようになることです。「心の貧しい」「悲しんで」「柔和で」「義に飢え渇いて」(…)いる神と絆を持つ人たちは、その生きざまを通して、周りの人々が「本当に大切なもの」に気付くようにするのです。

3、神の栄光を表す

 そして光の究極的な目的は「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」という言葉に表されます。神につながる者は神とともに歩み、神の栄光をあらわすために生きていきます。「自己中心→神中心」、「自己実現→神実現」、「自己満足→神満足」の生き方です。神から始まり、神に帰るのがこのように出発点と到着点が正しくなると、人間の人生は変えられ、正しい方向に向かって進むことができます。「良い行い」は自分の努力で何かをするということではなく、神さまとのつながりをしっかりと保つということです。

 何気ない日常生活のなかで、周りの人たちに神さまがおられること、信じる者を生かしてくださること、恵みを与えてくださることを表していきましょう。特別なことは必要ありません。神に生かされていることを日々感謝し、聖霊に満たされ、神とともにこの一週間も力強く歩んでいきましょう。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。       1コリント10:31

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