その61 「いのちを与える神」

2015.03.01

イサクの生涯①

創世記21:1-6

アブラハムの生涯を最後まで見ましたが、今回からイサクに焦点をあててもう一度この21章をみてみましょう。父アブラハム、そして息子ヤコブの人生と比べると、イサクの生涯はあまり大きな出来事も少なく、穏やかなものに見えます。しかしよく見ると、イサクの生き様もまた、私たちクリスチャンに如何に生きるべきかを教えるものです。

1、イサクは神の真実を証言した。

1節 主は、約束されたとおり…

 子を産めるはずもない年齢となったアブラハムとサラの間に生まれたイサクは、その存在(生まれたということを含めた人生)そのものが神を証言するものとなりました。イサクは、神は約束を守られる方であり、御心に適う者を選び、ときには試練を通してその信仰を鍛えつつ、信じる者を助け、必ず祝福を与えてくださる神だということをその生涯を通して宣言したのです。

このイサクの姿は私たち信仰者の姿でもあります。私たちは神の恵みによって選ばれ、信仰(神との個人的つながりを持つこと)によって救われ(大丈夫とされ)ています。私たちの存在そのものが神がおられること、神が働いていること、神が信じる者を祝福してくださるお方であることを宣言するのです。

2、イサクは喜びとなった。

6節 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう」

 イサクのヘブル語の意味は「彼は笑う」です。17章で神ご自身が指定されました。そして18章でサラが「イサクが生まれる」という約束を笑ったことが、この言葉の伏線となっています。サラはもしかしたらイサクの名を呼ぶたびに過去の自分の不信仰を恥じたかもしれませんが、「神は私を笑われた」というのは決して否定的な意味だけではないでしょう。彼女はイサクの誕生を通して、神は信仰者の不安、恐れ、嘆きというものを喜びに変えてくださるということを体験したのです。

 私たちも同じ体験をすることができます。人生は平坦ではなく、神を信じていたとしても、試練が訪れ、不安や恐れを感じることがあるでしょう。神の言葉を握りしめながらも、その実現をなかなか目にすることのできない焦りを感じることもあるでしょう。しかし神は私たちの涙を必ず喜びに変えてくださり、嘆きを笑いに変えてくださるのです。

3、イサクは神のいのちを持っていた。

 イサクは神から与えられた命を持って生きた人です。それは単にこの21章で誕生したということだけでなく、次の22章を通して見ることができる象徴としての「復活のいのち」です。イサクの生涯そのものが、神のいのちを持つ者がどのような生き方をするかを表しています。

 私たちも今、キリストを通して神との関係を結び直し、聖霊によって神のいのちをいただいている者たちです。人からどのように見られたとしても、神のいのちをうちに持っているのです。

 ではこの与えられたいのちをどのように使うでしょうか。それが私たち1人一人に託されている使命です。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」ヨハネ11:25-6

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする