その50 「有終の美」

2014.11.02

アブラハムの生涯

創世記25:1-10

 前章はイサクの結婚の物語でしたが、アブラハムはなおもケトラというもうひとりの妻(そばめ)を持ち、6人の子供が与えられたと書かれています。そしてついに175歳の長寿を全うして天に召されました。イサクとイシュマエルが埋葬し、遺体はサラと同じ墓に葬られました。聖書は、アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うしたと語っています。

1、神はアブラハムを見捨てなかった。

 12章でアブラムが神に声をかけられたのは彼が75歳のときだったと書かれています。つまり彼はちょうど100年間神を信じ、歩んだのです。そしてとうとうその人生を終えるときがきました。彼の生涯を振り返るときに、まず教えられるのは、神は何があろうが決してアブラハムを見捨てなかったということです。

 新約聖書では「信仰の父」と呼ばれるアブラハムですが、その生涯を振り返ったときに、彼の歩みは決して万全ではなかったことが分かります。ある時は妥協をし、ある時は疑い、ある時は恐れて自己保身に走っています。このようなことは神の目から見るならば不信仰であり、裏切りと言ってもよいものでしょう。しかし神は決して彼から離れることはなかったのです。そしてその生涯の終わりまで彼を祝福し続けました。

 彼の生涯は私たちに希望を与えます。私たちが何が出来るからではなく、神が愛と恵みに満ちた方であるゆえに、私たちは赦され、祝福に満ちた生涯を送ることができます。

2、アブラハムは「祝福」となった。

 アブラハムはただ神に祝福されただけでなく、最後まで自分自身が他の人にとっての「祝福」となることを願いました。6節を見ますと彼は自分のそばめの子らに十分な贈り物を与えて、イサクから遠ざけたと書かれています。勿論これは将来自分が死んだ後で家族の間にトラブルが起こらないようにしたことだと思います。このように彼の心にはいつも他の人に対する配慮があったのです。思えば彼の生涯には甥を助けるために自らの危険をかえりみずに助けに行ったり、見ず知らずの旅人をもてなしたり、悪に満ちたソドムに神の裁きがくだらないように必死にとりなしたこともありました。

 クリスチャンは自分さえよければそれでいいという存在ではありません。他の人に対して祝福となることがクリスチャンの存在意義です。そしてそれは決してただ漠然と生きていたらできることではなくて、他の人の必要や、状況をしっかり考えて、時には積極的に行動する中で自分が回りの人たちに対する祝福となるのだということです。祝福となることを願っていきましょう。

3、アブラハムは神の約束を握りしめた。

 彼の100年間の歩みを支えたものは、お金や社会的立場ではなく神から受けた言葉でした。色々な障害や不安のなかで、彼は神の言葉を握りしめ、その信仰を神は「義しい」と認められたのでした。

 私たち信仰者の歩みを支えるものも、この神の言葉でなければなりません。神の約束は決して私たちを裏切りません。何故なら私たちがどのような者であっても、神はご自身の約束を破るような方ではないからです。「信じる」という行為は「信じ抜く」という人生を貫く生き様です。アブラハムに倣い、信仰によって生涯を全うする者となりましょう。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。      イザヤ 55:11

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする