2014.08.10
マタイ7:24-27
イエスのたとえ⑭
ある所に2人の人がいました。2人はそれぞれ自分の家を建てました。このたとえを読む限り、どちらかが大きな家で、どちらかは小さな家とは書かれていません。両方同じぐらいの大きさの、同じような形の家だったのでしょう。
違っていたのは一つだけです。建てた場所が違っていたのです。一人は岩の上に家を建てました。もう一人は砂の上に家を建てました。そしてそれぞれ自分の生活を楽しんでいました。ある時大雨が降り、それがやがて洪水になって押し寄せてきました。岩の上にあった家はびくともしませんでしたが、砂の上に建てた家はぺしゃんこにつぶれてしまったという話です。
1、土台は目に見えない。
ここで言われている家とは私たちの人生だと考えてみてください。2人の家のみかけに違いがなかったように、私たちの人生も外側の目から見ると隣の人とそれほど違いはないかもしれません。神を信じていても、神を信じていなくても、見かけはそれほど変わらないでしょう。同じように働いたり、食べたり、飲んだりして過ごしています。土台というのは目には見えない、分からない部分です。普段も分からないし、お天気で調子が良いときは余計に分かりません。上手く行っているときは誰も自分の人生がどの上に建っているかなんて気にしないのです。しかし最後まで「人生の土台などどうでも良い」で終わるものではないと、ここでキリストは警告しています。
2、土台は試練 のときに分かる。
私たちの人生がどの上に立っているのか明らかになるときがあります。嵐のような試練が来たときです。私たちの人生に自分ではどうすることもできない大きな問題や困難が襲い掛かって来たときに初めて人は、自分が砂のような頼りにならないものを土台にしていたのか、それとも固い岩を土台にしていたのかが分かるのだとイエス・キリストは教えているのです。
私たちは今自分の人生をどこに建てているでしょうか。あなたが人生の土台としているものは、どんなことがあっても、決してゆるがないものでしょうか。今世界中で政治、経済、社会のありとあらゆるものが、ゆさぶられ続けています。一度しかない人生です。周りの状況に左右されない、揺らぐことのない土台の上に、人生を建てあげていきましょう。
3、土台はキリストとの関係。
人生の土台とはキリストとの個人的なつながりです。キリストはどうしたら私たちが不安なく平安な生涯を送ることができるのか、周りの人たちに良い影響を与える、やりがいと生きがいのある人生を生きることができるのかを教えています。この方を信じるだけで、そのような人生を手に入れることができるのです。
しかし多くの人がこの土台のうえに人生を建てることなく、砂のようにもろいものを土台として生き、傷つき、倒れやすい人生を歩んでいます。「人生の土台」であるキリストの手をしっかりと握りしめて、離さないようにしましょう。
「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」 Ⅰコリント 3:11