その35 「それでも神は」

6月1日 2014年

創世記16:1-10

アブラハムは「子どもが与えられ、その子孫は大いに増える」という約束を何度も神様に与えられ、励まされたにもかかわらず、その歩みは決して固く腹のすわったものではありませんでした。フラフラしてしまうのが、聖書に描かれているアブラハムの姿です。

1、妥協はわざわいをもたらす。

アブラムはとうとう86歳になろうとしていました。まだ約束の子は与えられません。そこで妻のサライがこんな提案をします。「どうか女奴隷のハガルから子供が生まれるようにしてください。」アブラムは彼女の申し出を断らず、その通りにし、ハガルが妊娠します。 サライも、そしてアブラムも妥協してしまいました。神様から再三約束を受けたにも関わらず、サライは「もう私の体からは子供が出てこないだろう。」と勝手に結論を出し夫のアブラムに提案し、彼もその提案に同意してしまったのです。 その妥協の結果はどうだったでしょうか。まず夫婦の間に争いが起こります。夫婦間の争いが家の中の争いとなり、ハガルは出ていこうとします。信仰の妥協の結果争いが広がっていきました。 私たち人間は目で見るものに心を奪われ、不安になり、神の言葉を自分勝手に解釈して、信仰を妥協してしまう弱さを持っています。しかし約束を信じ続けることが神様の願いであり、祝福の鍵です。どんなことがあっても揺るがない、妥協しない信仰者となることを求めていこうではありませんか。

2、傲慢もわざわいをもたらす。

確かにこの事件はサライとアブラムの信仰の妥協が原因でしたが、それにしてもハガルはサライに対して傲慢になる必要は全くありませんでした。それまで通りに女主人サライに従順に仕えていればよかったと思います。しかし彼女は子どもを身ごもったことによって高ぶり、自分主人であるサライを見下すようになってしまいました。ハガルの身に起こった災いの直接の原因はむしろここにあります。 私たちは謙遜な心を持つことがたいせつです。そうすることによって、私たちは神様に従う生き方を学び、品性が成熟していくのです。そして神様はそれをご覧になって祝福を与えられるのです。信仰の妥協、そして傲慢によってわざわいを招くことのないように、私たちは固く立って歩んでまいりましょう。

3、それでも神は見放さない。

しかしこのストーリで大切なのは「それでも神は…」ということです。アブラムは神様の約束を100%信じ切ることができず、妥協してしまいました。その後の夫婦間、家族間の問題処理も拙いものでした。 しかし神様はそんなアブラムを諦めることなく、約束を果たしてくださるのです。しかも妥協の実ともいえるハガルの子にさえも祝福を約束してくださいました。ここに神様の忍耐と恵みがあります。たとえ一時的に道を外れたとしても、神は忍耐深く彼を導き、訓練し、祝福を与えられます。

私たちも弱さを持ち、ときには信仰を妥協してしまったり、高ぶってしまったり、失敗してしまうこともあるでしょう。しかし神様は決して私たちを諦めずに、約束の場所へと導いてくださいます。この神様の素晴らしい恵みを感謝しましょう。

どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。 ローマ15:5

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