2023/11/5
1コリント1:17-25
十字架は単なるデザインや教会のシンボルではありません。十字架は私たちに福音を語っているのです。そしてパウロはこの十字架のことば、福音こそが神の力だと言っています。
1、十字架のことばは神の力。
聖書ははっきりと、十字架の言葉、福音は世界の人々を2つに分けると言っています。福音を愚かでばかばかしいととる人か、自分を救う神の力ととる人か、です。十字架の言葉は滅びに至る人々にとっては愚かです。ばかばかしいものです。しかし救いを受ける人にとっては罪を清め、死から命へと至らせる神の力なのだと言っているのです。
「この時代に神だとか、罪だとか、救いだとか、馬鹿馬鹿しい。裁きとか、世の終わりとか、新しい世界だとか、何を言ってるんですか、あなた本気でそんなこと信じられるんですか」、という方もおられるかもしれない。福音はそういう方にとっては、愚かな言葉なのです。しかし死から命へ。絶望から希望へ。悲しみから喜びへ。暗闇から光へ。こういうことは、人間の力ではできないのです。神の力です。この神の力を信じましょう。
2、十字架のことばは神の知恵。
福音は人間の知恵によって理解できるものではありません。むしろ人間の頭で考えれば考えるほど、理解不能です。「神が人となってこの世に来られ、人間の罪を全部背負って十字架で死なれ、しかも三日目に甦られた。そしてそのままの姿で天にのぼられて、今も生きておられる。」人間の理解をはるかに超えたこの真理は、どんなに勉強しても分からないかもしれません。しかしこの福音こそが、実は神の知恵なのだとパウロは言っています。
人間の知恵や力がどんなにすぐれているように見えたとしても、神様の力、神様の知恵にはかないません。「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。1コリ1:25」
この福音にこそ、神様の力と知恵が凝縮されていることを信じましょう。
3、聖霊によって。
この神の力であり神の知恵である福音を伝えるために、神は私たちをご自身の霊で満たされることを信じて、求めていきましょう。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
この言葉は特に、私たちペンテコステ教会の命です。
この福音の原点に立ちましょう。私たちの教会はこの福音に立ち、この福音を伝えるために存在しています。このグッドニュースを伝えることを、私たちは託されています。皆さんの家庭、職場、学校で、イエス様を伝えることができるのは、皆さんしかいません。この福音を一人でも多くの人に伝えようではありませんか。
私たちは、この十字架のことばによって、救われていることを改めて感謝し、この十字架の言葉、福音を携えて、生きてゆく決意をしていきましょう。
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 ローマ1:16