2015.10.18
ルカの福音書15章8-10節
「失われた羊」と「放蕩息子」の間に位置するこのたとえ話も、当時の社会で「罪人」と見られていた人たちと過ごしているイエスを、宗教家たちが批判したことから語られたものです。イエスにとってこの「罪人」たちは「失くした銀貨」なので、探さなければならなかったのです。
1、神の目には失われている。
この章に出てくる羊も銀貨もそして息子も問題はただ一つです。本来あるべき場所にいないということです。羊は羊飼いから離れ、銀貨は失われ、息子は父親から飛び出していきました。羊は危険にさらされ、銀貨は存在価値がなくなり、息子は食べることさえ困難になりました。このままではいけないから問題なのです。
聖書は人間が神から離れている状態を罪と呼んでいます。本来一緒にいるべき神から離れている状態、一緒にいない状態は苦しく、問題のはずなのです。しかし多くの人がそのことに気付かず、自分勝手に生き、そして心の底では苦しんでいるのです。「自分は失われている」、「本来いるべき場所にいない」、このことに気付くことが大切です。
2、神の目には価値がある。
この銀貨は1ドラクメと言って一日分の賃金に相当する額だったそうです。高価には違いありませんが、9節にあるように見つかったからと言って近所中の人に報告して回るほどの価値とは思えません。実は当時は10枚の銀貨を首飾りのようにつなげて身に着けるという習慣があったそうです。だから10枚のうち1枚足りなくても困ったのです。つまり銀貨1枚以上の価値、絶対になくてはならない価値があったのです。
神は私たち一人ひとりをそのように見ておられます。家じゅう探し回ってでも見つけるべき存在。それが私たち人間なのです。
それだけではありません。他の9枚にとってみても、10枚そろってはじめて意味があるということになります。人間同士がつながっていて、一人欠けていてもだめなのだ、全部そろうことを望んでおられるという神の視点がここにあらわれているのです。
3、神は喜ぶ。
探し回って見つかったら近所中に「一緒に喜んでください」と触れ回る。これほどの喜びが神にはあると教えられています。一人の失われていた魂が、神のところに帰ることにはそれほど大きなことなのです。私たちは神を喜ばせることができます。良い行いをするとか、特別なことをすることによってではありません。神に見つけていただくだけで良いのです。私たちを見つけるだけで、天には大きな喜びが起こるのです。キリストはこのように、人が神に見つけられて、神のもとに戻ることを「悔い改め」と呼んでいます。
私たちは神の探す声、呼ぶ声に気付いたのであれば、「はい。ここにいます。あなたのところに帰りたいです」と応えるだけで良いのです。
キリストは私たちが帰ることができるように、十字架の御業によって神との隔てに橋をかけてくださいました。誰でも十字架を通って父なる神のもとに帰り、豊かないのちをいただくことができます。神の呼びかけに応えましょう。
わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。 エゼキエル 18:23