2014.06.15
イエスのたとえ⑫
マタイの福音書28章28-32節
このたとえ話はバプテスマのヨハネというイエスの活動にさきがけて、神から遣わされた預言者をどのように見るかという宗教家たちとの議論からはじまったものです。
お父さんに頼まれて「はい」と言ったけど従わなかった息子と、「いや」と言ったけど従ったという二人の息子の話です。ここでは人間の人生にとって本当に価値あるものは何かという問題が教えられています。
1、価値あることは生きざま
後のイエスの言葉でも明らかなように、「行きます」といっていかなかった息子とは宗教家たちを表しています。バプテスマのヨハネが罪を悔い改めて神に立ち返れと教えたときに「自分はやっている。自分は分かっている」と実際の生き方を変えなかった人たちです。一方「嫌」と言いながら後で行った息子が当時の社会で罪人とみなされていた取税人や遊女たちです。彼らは自らが神から離れていたことを認めて、悔い改めて神に立ち返ったのです。 日頃何を言っているか、あるいは社会的立場や人からどう見られているかではなく、実際の生きざまこそに価値があるのだとイエスは教えています。言葉やみかけではなく生きざまがその人の人生の価値を示します。
2、価値あることは方向転換
このたとえ話では鍵となる言葉が2回使われます。一つは30節の 「あとから悪かったと思って」という言葉と32節の「あなたがた は、それを見ながら、あとになって悔いることもせず」という言葉 です。 人生において価値あることは、自分の誤りに気がつき後でも良いから方向転換することです。 人生は選択です。一度しかない人生を本当に意義あるものにしたいのであれば、間違いは素直に認め、歩んでいる向きを変えるしかありません。自分に命を与え、声をかけてくださっている神から離れていることに気がついたのであれば、神のもとに帰るべきです。人は自分がどこから来て、どこに行くか分からなければ、今の人生を有意義に生きることはできないからです。神への方向転換が人生の価値を高めます。
3、価値あることは天の父との関係
この父が息子たちに望んでいたのは単なる労働ではなく、自分との真の関係です。父と息子の関係は義務や恐れではなく、信頼関係で成り立つものだからです。 神はただ私たちに規則を押し付け、それに違反したら罰を与えたいと願っているわけではありません。天の父は、私たちに自分の間違いを気づかせ、自分のもとに帰ることを望んでおられるのです。人生の方向転換をして戻ってくるならば、いつでも喜んで迎え入れてくださる神なのです。 御子キリストも一度だけ「できたら行きたくない」と言われたことがありました。十字架を前にしたゲッセマネの祈りです。しかしイエスは父なる神の心に従いました。私たちを救うためです。天の父と自分を隔てているものが分かったのならば、帰りましょう。神との個人的関係を持つことによって、私たちは本当の生きがいと喜びを手にすることができます。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。ロマ 8:15